ありえないドジと思わぬ幸運

平日の深夜。愛する妻と娘はぐっすりと眠っているこの時間、私は書斎で書類仕事に追われていた。
そろそろ眠ろうとしたときに、先輩の執務官から緊急の仕事を頼まれたのだ。
うぅ、それを引き受けてしまう自分の性格が恨めしい。
本当なら、なのはと一緒のベッドで眠っているはずだったのに。

「ん~~」
椅子に座ったまま大きく伸びをする。かれこれ3時間、こうして机に向かいっぱなしだ。
そろそろ休憩しようかな。そう思った私はコーヒーを求めて1階のリビングへ向かう。

住み慣れた家ということで、私は注意力が散漫だったのだろう。
階段を降りている時でさえ、頭の中は書類を早く終わらせることだけを考えていた。
だからこそ、悲劇が起こった。

「えっ?」
気づいたときにはもう遅い。
踏み外した足は虚しく宙を掻き、乗せようとした体重が何も無い空間にかかる。
そこから導きだされる答えはただひとつ。階段からの、落下。

「きゃぁぁぁぁっ!」
久しぶりに情けない悲鳴を上げながら、階段を落ちていく。
幸いにも腰からの落下だったから命に別状はないだろうけど、
その代わり1段ごとに腰をぶつけるのだからたまったものではない。

止まって! そう心のなかで願っても、現実はそんなにうまくいかない。
結局私の身体は、たっぷり10段分は転げ落ちた。

私が落ちた音は予想していたよりもずっと大きかったようで、
眠っていたはずのふたりが私の目の前に姿を現した。

「どっ、どうしたのフェイトちゃん!?」
あわわ、という擬音が最も適当な様子でなのはが私に駆け寄ってくる。
後ろで見守るヴィヴィオもどこか不安そうにしているのが手に取るように解る。
ダメだな私、こんな時くらい強がってみせないと。

「あはは、ちょっと階段踏み外しちゃった」
ズキズキと痛む腰を手で押さえつつ、辛うじて笑顔を作る。
多分目の端に涙が浮かんでいただろうけど、それを無視すればうまくいったはずだ。
その証拠にヴィヴィオは呆れたような顔を見せる。

「はぁ~。フェイトママって普段はすごく凛々しそうに見えるのに、信じられないドジするよね」
ものすごいことを言われた。というより、娘にそう見られているという事実の方が私には衝撃的だった。
うん、今度からしっかり心に刻みこんで生きていこう。実行出来るかは謎だけど。

「ふぁ~あ。じゃあ後はなのはママに任せて、わたしは寝るね。わたしは明日も学校なのです」
「うん、おやすみ」
眠たそうに眼を擦りつつ、ヴィヴィオは自分の部屋に戻っていった。

そのタイミングを見計らったように、なのはが私の腰に手を当ててくる。
そっと優しく触ってくれたけど、それでも今の私にとっては激痛だった。

「痛っ!」
「やっぱりやせ我慢だったんだね」
叱るような表情を見せるなのは。まずい、なのはを心配させてる。なんとかしなければ。

「べ、別にそんなことないよ。ちょっと驚いただ、」
「今度は少し強く押そうか?」
なのはの眼がスッと細くなったことから、相手が本気であることを悟る。
この状態のなのはに逆らっちゃダメだ。逆らったが最後、どうなるか解らない。

「ごめんなさい、ものすごく痛いです」
「はい、それでよろしい。まったくもう、痛いのを我慢しちゃダメなんだからね」
謝ったことで、なのはが再び笑顔に戻る。

それはよかったけど、今の言葉はなのはが言われるべきだと思うな。
この状況で言ったら怒られるだけだろうけど。

「じゃあフェイトちゃん、ちょっと我慢してね」
なのはの姿が一瞬視界から消える。次の瞬間、私の身体は浮き上がっていた。
驚いて顔を上げると、そこにはなのはの顔が。

「な、なのは!?」
「ふふっ、暴れないでよ? 少しの間なんだから」
これって、その、あれだよね? お姫様抱っこ。まずい、恥ずかしすぎる。
だって、顔を上げたところになのはの顔があるんだよ。これでドキドキしないなんておかしい。

「あのね、なのは、その、無理しないでね」
「平気だよ。だってフェイトちゃん軽いんだもん。あ~あ、どうしたらこんなに軽くなれるのか聞きたいよ。
しかもフェイトちゃんって、ものすごく美人さんだし。」
その言葉で顔が紅くなったのが解った。なのはにそんなこと言われたら照れるのも仕方ない。
でも、なのはだって美人だと思うけどな。それにものすごく可愛い。

「そん、」
「そんなことないよ?」
なのはをフォローしようとした私の言葉は、あろうことかなのはの口から放たれた。
見上げればしてやったりの表情のなのはが。なんだか負けた気分だ。

「はい、到着」
「あ、ありがとう」
なのはの手によって、ソファの上に寝かされる。
私はというと、ただただ恥ずかしくてなのはと顔を合わせないようにしているのが精一杯だった。
はぁ、情けないな。

「フェイトちゃん、湿布貼るから痛いところ教えて」
「うん」
服を軽く持ち上げられ、私はズキズキと痛むところをなのはに教える。
なのはも私が痛くないように、できるだけ優しく湿布を貼ってくれた。そんな優しさが胸に染みてくる。

「ごめんね、なのは。なんだか、迷惑かけちゃって」
全ての処置が終わった後、なのはに謝る。でも、なのはは私の言葉に笑顔を見せるだけだった。
「にゃはは、別にいいよ。困ったときはお互い様だからね。じゃあわたし、コーヒー淹れてくるよ。
そのために1階に来たんでしょ?」
どうやらなのはには何でもお見通しのようだ。

妻の言葉に一度だけ頷くと、なのははコーヒーを淹れるためにキッチンへ向かう。
残された私は、さっきのことを思い出していた。思い出せば思い出すほど恥ずかしくなってくる。
確かに嬉しい出来事だったけど、夫としてあれは情けなさ過ぎる。

「はいフェイトちゃん、なのはさん特製のコーヒーだよ」
そんなことを考えているとなのはがカップを持って戻ってきた。手に持っているのは私の分だけ。
きっとすぐに寝るつもりなんだろう。なのははコーヒーを飲むと眠れないタイプだから。

「ありがとうなのは。明日は早いんでしょ? 寝たほうがいいんじゃないかな」
「そうだね。じゃあ悪いけど、そうさせてもらうよ。
あ、明日はちゃんとお医者さんに行かないとダメなんだからね」
まるで子供に言い聞かせる母親のようだ。誰にでもこういうことを言えるのがなのはの良いところ。
だから私は、今度こそ心配させないように笑顔を作った。うん、今度は問題ない。

「解ってるよ。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ、フェイトちゃん」
そう言って何故か私に近づいてくるなのは。
不思議に思った私が何か言うよりも早く、なのはの唇が私の頬に触れた。

「ちょっ、なのは!?」
「約束したんだから、ちゃんとお医者さん行ってね」
楽しそうにリビングを後にするなのはと、それを呆然と見送る私。
頬に残った温もりが現実に起こったことだということを主張する。

階段から落ちたのはものすごく痛かったけど、その代わりにいいことがあったからプラスマイナスゼロかな。
むしろプラスかもしれない。
少しだけ幸せな気分になりながら、私は痛む腰を押さえ書斎に戻った。よし、気合入れて頑張ろう。