今、私は途轍もないピンチに陥っている。
正面にはこっちを真剣に見つめて微動だにしないなのは。
後ろにはそんな私たちを監視するような無数の視線。
なるほど前門の虎後門の狼とは言い得て妙だな、なんて考えてしまうくらいだ。
しかし、もう逃げられない。否、逃げることを許してもらえないのだ、この状況では。
なけなしの勇気を振り絞って言葉を紡ぐ以外に、安息を得る方法はない。
小さく息を吸って、正面のなのはを見据えた。
「あ、あの、その、ええっと、」
意を決して出てきたのは、そんな言葉だけ。だが、なのはは視線を逸らそうとはしない。
ただ私だけを視界に入れ、決して動こうとはしない。
私が役目を果たさない限り、この状況が変化することはないだろう。
もう一度、今度はさっきよりもずっと大きく息を吸う。
「あ、愛、していま、す。ひ、姫っ!」
最後のほうが裏返ったけど、よく頑張った私。でも、現実は甘くなかった。
「あぁ、もうっ! カット、カット、カァァァット!!」
激しい言葉と共に演技が強制的に終了させられる。
不謹慎かもしれないけど、私はようやくそこで一息つくことが出来た。
これから総監督のお説教が待っているのは、勿論解ってるけど。
「フェイト、アンタ何度目か解ってる? 6回目よ、6回!」
丸めた台本を私に突き出してくる総監督のアリサ。そう、このシーンだけで6度目のリテイクだ。
それ以外のシーンでは問題なく演じることが出来ているけど、このシーンだけはどうしても上手くいかない。
いや、理由は解ってるんだ。
「それはすごく悪いと思ってるんだけど、その、恥ずかしくて、」
「シャラップ! 言い訳は聞きたくないわ。いいこと?
今度の文化祭演劇コンクールではやてたち6組に勝つこと。それがアンタたちに課せられた使命なのよ。
今更恥ずかしいだなんて言わないの。それに、」
言葉を止めてチラリとなのはの方を向くアリサ。
総監督の厳しい視線になのはは気づいていないようで、小道具の娘からもらったジュースを飲んでいる。
その様子を確認したアリサが、今度は私の耳元で爆弾発言をした。
「アンタたちって、こういうことを毎日言ってるイメージなんだけど、違うの?」
「なっ!?」
思わず立ち上がって大声を上げかける。
幸いなことにほとんどの生徒は自分の作業に熱中しているせいか、こっちに気付かずにいてくれた。
なのはも気付いていない様子だ。それにひと安心すると、もう一度アリサと正面から向かい合う。
「何言ってるのアリサ!? そんなことしてないよ」
「それはそれで意外だけど、本当のところはどうなのよ?
他の娘は騙せても、総監督であるこの私の目は誤魔化せないわ」
それは総監督であることと何か関係があるのかな? でも、アリサの言っていることは合っている。
促すようなアリサの強い視線に根負けし、真実を話してしまった。
「その、2日に1回くらい、だよ」
「多いわっ!」
大声と共に丸めた台本で私の頭を叩くアリサ。勇気を出して正直に言ったのに、酷い。
「まぁ、アンタたちの恋愛観に文句は言わないけどね。でも、それならどうして言えないのよ?」
続けて放たれた質問は、アリサからすれば当然のものなんだろう。
だけど、なのはにその言葉を言うのはふたりきりのときだけだ。
恥ずかしいけど、アリサに事実を言うだけで苦労した私だ。舞台の上で言えるはずもない。
「だったらアリサは言えるの? 大勢の前で」
「当然でしょ」
ポツリと呟いた言葉はアリサにあっさりと肯定されていた。
きっとアリサは演劇は演劇、現実は現実って切り替えるのが上手なんだと思う。
私もそう出来たらいいんだけど。
「と・に・か・く! 本番まではあと少しなんだから、観念しなさい。
ってことで今日はここまでよ! みんなお疲れ様」
反論する隙を全く与えてもらえず、アリサがいつもより早く全体に終了を告げる。
総監督の発言に、残っていた生徒たちは片付けを終えた順に次々と帰宅していく。
ぼうっとしたままその様子を見ていると、気づいたときには教室の中に残っているのは私となのは、
アリサだけになっていた。そして一言二言なのはに声をかけると、アリサも帰宅していった。
ふたりきりになった教室。無音の教室では、互いの存在を意識させられてしまう。
「あの、フェイトちゃん?」
「な、何? なのは」
ものすごく気まずい。当然だ。さっきの文を含め、6回も醜態を晒した私だ。
正直なところ、私はこんな人間なんだ、って失望されていても驚かない。
そんなことは嫌に決まってるけど、自業自得だ。
お互い言葉が続かないこの状況で、先に口を開いたのはなのはだった。
もしかしたら、最後通告かな。こんな情けない私が恋人だなんて、なのはにも失礼だから。
ならばその通告も甘んじて受け入れ、
「フェイトちゃん、わたしのこと、好き?」
出てきたのは予想外の言葉。あまりに予想外過ぎて、脳が言葉の意味を理解していない。
しかし身体はしっかりと理解できたようで、私の意識を離れて頭を全力で上下させていた。
「ありがとうフェイトちゃん。でも、どうしてそれを演劇の時に言ってくれないのかな? すごく期待してたのに」
「あの、それはね、その、」
緊張してしまって言葉が続かない。こんな時に緊張しちゃうなんて、やっぱり私って駄目だ。
でも言葉が出ない私に、なのはは優しく微笑んでくれた。
「ふふっ、無理しなくてもいいよ。フェイトちゃんの気持ちは解ってるから。
『なのはに伝えたけど、恥ずかしくて言えないよ』、そう思ってるんでしょ?」
「……仰る通りです」
また恥ずかしさが増してきた。なのははずるいよ。私よりも私のことを知ってる。
私の知らない私を、なのはは知ってる。本当に叶わないな、なのはには。
「でもね」
不意に顔を近づけてくるなのは。そんな彼女の行動に、心臓の鼓動が一瞬にして跳ね上がる。
でも目を背けちゃ駄目だ。なのはの顔を見なければならない。そうしないといけないんだ。
「今は、わたしたちだけだよ。だから、言葉にして。『愛してる』ってわたしに向かってちゃんと言って」
真剣な表情のなのはから、これが最後だということを悟る。
ここで失敗したら、今までの全てが終わってしまう。
だから私は言わなければならない。
情けないけど軽く周囲を見渡し、本当に誰もいないことを確認してからゆっくりと口を開いた。
「愛してるよ、なのは」
緊張することもなく、ごく自然にその言葉を紡ぎ出すことができた。
さっきはこの言葉を言うだけで四苦八苦していたのに、本当に滑稽だ。
短い沈黙。出来ることはやった。後はなのはの反応だけ。どんなに時間が経過しても待つつもりだ。
すると、なのはが顔を上げた。満面の笑みを浮かべながら。
「やれば出来るじゃない、フェイト!」
後ろから思い切り肩を叩かれる。
それでようやく、呆気にとられていた私の時間が動き出した。
振り返ると、なのはに負けない笑みを浮かべたアリサ。
そして更にその後ろには、帰ったはずのクラスメートの姿が。えっ、これって、どういうことなの?
「騙すようなことしてごめんなさい。でもアリサちゃんが」
「ふたりっきりなら、なのはが迫れば言うに違いないって言ってあげたのよ。
まぁ、まんまと引っかかるアンタもアンタよね。それにしてもなのはの演技はすごかったわ。
やっぱり主演女優に選んだのは正解だったみたいね」
「えっ、演技じゃないよ。わたしは自分が思ったように行動しただけだよ」
目の前でなのはたちが話しているのが聞こえるけど、私の頭の中はこの状況を理解しようと必死だった。
えぇっと、つまり、これは、
「アリサにしてやられたってことかな?」
口に出すことで、ようやくそのことを脳が理解する。
そしてその言葉を待っていたように、アリサが話しかけてきた。
「そういうことよ。で、どうするのフェイト? これだけの人数の前で言っちゃったんだから、もう大丈夫よね?」
挑発するような笑顔を向けてくるアリサ。なるほどね、そういうことか。
今度こそアリサの真意を完全に理解する。うん、こうなったらもう自棄だ。
そうして私は隣にいるなのはを抱き寄せた。
「なのは、愛してるよ!」
「ええっ! ちょっ、ちょっと、フェイトちゃん!?」
顔を真赤にして抗議しようとするなのは。だけどゴメンね。
でも、なのはだっていけないんだよ。アリサの悪巧みに乗っちゃうんだから。
だから、これはささやかな仕返し、ううん、お仕置きだ。
「愛してる! 私は、なのはを愛してるんだ!」
「うるさい! 少しは場所を考えなさい!」
結局アリサに注意されるまで、私の愛の告白が止むことはなかった。
当然、翌日のなのはが私に冷たかったことは言うまでもない。
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